山形交響楽団 第251回定期演奏会

「月山を越える」

NH395 HND → SYO

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これは僕にとって、山形交響楽団の定期演奏会を聴くにあたってなくてはならないイベントとなりました。僕はこれを勝手に「儀式」と呼んでいます。羽田空港から一旦庄内空港へ飛び、山形自動車道〜月山道路〜山形自動車道と東に進路をとって、山形市のある村山地方へと入っていく。そのようにして、自分の身体を「山響モード」に馴染ませていくのです。

これを繰り返してかれこれ3回目となりました。

2016年3月5日の山形交響楽団 第251回定期演奏会のメインはブルックナー 交響曲第2番 ハ短調 WAB102 (1877年第2稿・ギャラガン校訂版)。タクトを振るのはもちろん、音楽監督の飯森範親さん。

素晴らしい演奏を目の当たりにすると直後に言葉を失ってしまうというのは、どうやら本当のようです。4型編成とは思えない弦楽器の重厚な響きと明確な意志を持った木管楽器の音色、そして、金管楽器のダイレクトに押し寄せる波。それらが一体となって大きなうねりのようにして押し寄せてきて、その圧倒的な存在感に、何度天井を見上げたことか。第1楽章からやられっぱなしでした。音の粒が一つ一つ、鮮烈に身体の中に入り込んでいくような感覚。

「ブルックナー終止」も、彼の音楽の一部としてきちんと意味を成し得ていました。一瞬の濃密な静寂。

ブルックナーは尊敬するワーグナーの姿を追い求めながらも、自身が理想としている響きを作り出そうとして、それを譜面の上に表現していったんでしょうね。事実、この交響曲以降、最低でも第7番までは、スタイルがぶれずに継承され続けています。響きがとても重要。そして山響はきちんと咀嚼して、聴き手に「なにか」を残すために、テルサホールの空間でさえも味方につけて、目一杯の世界観を僕たちにもたらしてくれました。渾身の演奏でした。

交響曲第8番と第9番は演奏せずに、ブルックナー・チクルスは一旦幕を閉じるそうです。そういう意味でも、最後に敢えて第2番を持ってきたというのはとても大きいと思います。遅咲きなブルックナーがずっと追い求めてきたものの原点がここにあるんだということを、僕たちに気付かせてくれたような気がします。

これ以上、この演奏に対して何か言葉を紡ぎだそうとしても、上手い言葉が見つかりません。

終演後、テキストベースで日記を書き始めた頃から親交を続けさせていただいている工藤春奈さんとお会いして、ふたりしてしばらく無言の状態で、ロビーの椅子に座り込んでいました。

東京のオーケストラの演奏に接する機会も多々ありますが、山形交響楽団のプレゼンスというのは、単純に「地方オケ」という切り口だけで切れない独自性があります。そして山響の音楽を通じて、「音楽はいきものである」ということを、いつも再認識させられます。テルサホールの中に、いきものがいるんです。いや本当に。

そして、春奈さんとの語らいの中で、自分の在り方を再認識することができました。ああ、間違ってはいないんだなと。

だからこそ、「月山を越える」という儀式を繰り返すのです。きっと、これからも。

vlayusuke について

Violaを弾く。千葉県の東の端の方にある街のオーケストラで活動中。 好きな街は、Berlin、München、Wien、Barcelona、福岡、神戸、芦屋、金沢、横浜。
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