Allegro molto vivace.
2017-05-05 (Fri) [長年日記]
■ E50の快適さとC4の微妙さと
今回の帰省では復路にE50を使ったんだが、これが意外と快適で、北関東横断という大バクチを打った割には結果的には良い方向に流れた。ひたちなか海浜公園のお花畑がどうこうとかでE6が稀に見る大渋滞をしていたらしいけれども、花も夜になれば見られなくなるし、E6自体が全通しているとはいえ、東北方面からの流入量はE4と比較すると少ないであろうということはなんとなくわかる。結局復路では渋滞らしい渋滞に遭遇することはなかった。めでたしめでたし。
逆に気になったのはC4の存在。「三環状」の目的って、都心に流入する交通流を分散させるためのものなはずなんだけれども、この連休で渋滞していた箇所って、E1の大和トンネルを除くと、見事にC4の外側だったんだな。E1の大井松田、E20の小仏トンネルから上野原にかけて、E17の高坂サグと花園の微妙な上り坂、E6の千代田石岡付近。(E4の矢板は宇都宮市を越えているという点を考慮してここでは除外する)これらの箇所って、C4が開通する前から既に有名渋滞ポイントになっていたから、この連休に関しては有効な機能を果たせていなかったことになる。E50は北関東を横断するという心理的な距離の長さがネックになって、迂回路としては敬遠されていたのかもしれない。
C4自体も、E4より東側の区間については暫定扱いで片側1車線の対面通行になっているので、俗にいう「大名行列」ができてしまい、追い越し車線が登場するまでは我慢を強いられることになる。交通流を分散させたいのであれば最初から片側2車線で作ってしまった方が良かったのでは? 償還させるつもりがないのであれば。
そういう意味で、E50がやたら快適だっただけに、C4の存在ってなんか微妙だなぁ、とちょっと思った。
あとはこれは蛇足だけれども、サグができてしまうのは仕方がないので、該当する区間では積極的にアクセルを入れるように「明示的に」指示をする補助標識を置いた方がいいんじゃないだろうか? これは高速道路に限らず、Bの東京港トンネルや川崎航路トンネルの東行きでもそうなんだけれども、「スポード低下に注意」では運転する人に直接的な指示を出しているとは言い難い。法定速度を上回っているかいないかは別としても、流れが滞ることには変わりがないのだから、「この先1kmにサグあり。車間距離に注意してアクセル入れろ」でいいんじゃないかと思う。その先は運転者の自己責任。事故回避の時をのぞいて、ブレーキランプをやたら点灯させる車はさっさと第一通行帯に車線変更してくださいよ。じゃあ第三通行帯は常に走り続けていていいかというと、高速自動車国道に限っては通行帯違反ってものがあるので交通流に従って適宜正しい車線変更をすればいい。
都市高速に関しては、これはこれで別の技量が求められるし、そもそも取扱上は都府県道や政令指定都市における市道に該当するので、追越車線と走行車線という概念は存在しない。よく右側からの合流を嫌う人がいるけど、これはこの概念が存在しないことに起因しているので、文句は言えない。もっともC2山手トンネル内の右側分岐はヒヤヒヤするけどね。
2017-02-11 (Sat) [長年日記]
■ 千葉駅の変貌ぶりに今更驚く
僕は紛れもなく千葉県民なのだけれども、千葉市中心部に出向くことは多いか少ないかといったら、紛れもなく少ない部類に入る。千葉市に行くのは幕張新都心に行くのがせいぜいといったところか。
実際に津田沼駅を発車する総武線快速電車の本数を見てみても、上りは7時台が16本(そのうち通過する通勤快速1本、津田沼始発電車4本)、8時台が14本(そのうち通過する通勤快速1本、津田沼始発電車6本)に対して、下りは7時台が4本、8時台が7本(そのうち1本は稲毛を通過する特別快速)と、輸送力の差は歴然だ。
千葉駅のイメージも、コンコースが薄暗くていなたい記憶の方が強いんだが、半年ぶりに千葉駅に行ってびっくりした。
中心部に出るにはこれまでならホームから階段を降りるのだが、肝心の階段がない。まずそこで焦った。そしてこれまで「東口」と書かれていたのが「中央口」に変わっている。中央口? まぁとにかく黄色い看板に従って階段を上ったわけだけれども、
「なんなのこのイケてる駅は?」
いやもう変わりっぷりが半端ないわけ。ごちゃごちゃしたイメージは一掃されて改札への動線が整理されているだけでなく、いわゆる「駅ナカ」施設が充実。これでも仮開業の状態だから、本格的な開業になったらどうなるんだ?


電車の発車案内もフルカラー表示で綺麗になった。千葉駅は総武線快速電車、中央・総武線各駅停車、総武本線、成田線、外房線、内房線の6系統が乗り入れているので、東京方面へ向かう総武線快速電車以外は系統別にホームが分かれているとはいえ、初めて使う人にとって、どの電車に乗ればいいのか判断するのは意外と至難の技だ。それがフルカラーになることで、どの電車に乗ればいいのかがパッとわかる。
駅ナカも仮開業の時点でもかなり充実。外房線、内房線レベルでも千葉駅側は1日を通した1時間あたりの運転本数がそれほど多いわけではないので、多少の待ち時間は強いられるのだけれども、スイーツの店やらコーヒーショップやら、人気ラーメン店の支店まで、待つには申し分のない揃い具合。千葉支社はこんなところにお金をかけていたのか。。。
中央口と地上を結ぶエスカレーターも、どこの都心の駅ですか? と思うくらいに立派になった。いやまぁとにかくびっくり。ようやく県の中心としての「顔」が整った感じだ。
あとは中心部への集客がもう少し改善されて、賑わいが戻ってくる呼び水になればいいんだけれども、そこは本開業によって駅周辺部だけに集中しそうな危うさは若干残っている。千葉PARCOが閉店し、三越も閉店が決まっているので、人の流れがより一層駅周辺部のみになってしまうそうな気がする。
千葉市は第二次世界大戦の空襲からの復興で大幅な区画整理が行われて、駅自体もその後移転している経緯があって、その割を京成が食うという形になっている。なので街の中心軸がブレまくっていて、政令指定都市らしからぬ閑散ぶりが見受けられるところが随所にある。
東関道、館山道に加えて東京湾アクアラインが整備された影響もあって、千葉県東部や南部から東京都心に向かう高速バスは充実したけれどもそれを千葉市中心部に持っていこうという動きは残念ながらないし、地域間輸送も衰退気味。
これをきっかけに、常磐線沿線は無理にしても、総武線(総武本線)と分岐する各線からの人の流れを一旦千葉市でせき止められるだけの力を持てるようになるといいんだけれども、さてどうなるかね?
2017-01-23 (Mon) [長年日記]
■ 2回目の「君の名は。」
去年は例年になく映画を観ていて、映画評だとか前評判とかはあまり関係なく、自分が観たいと思ったものを観た年だった。
その中で「君の名は。」の存在はやはり気になっていて、色々と考えた挙句に2回目を観ることになった。
何の前提知識を仕入れず、目の前の物語の展開に追われるばかりだった1回目に比べて、伏線や背景、ディテールの部分が良く理解できたぶんだけ、あの物語で僕たちに伝えたかったことの意味を、ずっと考えている。
映像の美しさに対しては相変わらず息を呑むばかりだった。物語のターニングポイントとなる部分が、敢えて鉛筆による線画のタッチで描かれていることに、ようやく気がついたり。
瀧くんの住む東京の風景が、ほぼリアルな状態で描かれているのに対して、三葉さんの住む糸守町の風景は、日本のどこかにきっと実在しているのかもしれない風景を描きながらも、実は実在していなかったり。
御神体が鎮座している場所。とある地点を越えると「あの世」になるのだけれども、外輪山があることを考えると、その真ん中に御神体があるというのも本来であればなかなか考えられず、実はあの場所自体が「あの世」のような気がしてならないのだ。
そして、あの景色はいつか何かどこかで見たことがあるかもしれない既視感。何か他の作品からのオマージュというわけではないと思う。多分、自分の記憶の中にある何かに対する既視感。
神道的な概念よりももっとプリミティブな、日本に古くからある、月山や戸隠のような山岳信仰やアミニズムにも近いような。(一時期の細野晴臣さんや中沢新一さんのような思想に近いかも)
表面的にはちょっとしたSF的なファンタジー映画のようにも見えるけれども、そこで描かれているものについて考えれば考えるほど、その意味について追い求めてみたくなる。いや、ずっと追い求め続けてしまうかもしれない。
自分なりの着地点が見出せるといいのだけれども。
純粋に面白い、楽しめる、そんな作品ではないかもしれない。ただ、僕にとっては、表向きは日々の生活を繰り返している人生の中で、自分の内面や物事に対する意味合いを深く考えさせてくれる大きなきっかけを与えてくれた作品なのかなと思っている。
まだぼんやりとした輪郭でしかない、この作品の意味を考える旅は、しばらく続くかもしれない。
2017-01-21 (Sat) [長年日記]
■ 「堀江」という言葉の魔力
なんか、何かが終了したり解散したり、というタイミングでまとまった文章を書いているような気がする。それはそれとして。
Especiaが歌っている姿を初めて観たのは、2014/2/23の代官山LOOPで、結成からは既に2年は経過していたので、ファンとしては後発組になると思う。とある人に強く推されて、特に事前情報を取り入れずに、まずは観てみましたって感じだったんだけれども、ああ、このグループはすごいな、というのは純粋に感じた。
アイドルという概念がものすごく幅広に変わっていく中で、その曖昧な領域の中、とても面白いポジションを突いてきたと思ったし、楽曲についても、野暮ったい存在として影に隠れかけていたシティポップやAORを、再度表舞台に立たせてくれるような、可能性と面白さを感じさせてくれたのは確かだ。
あと強く感じたのは「堀江系ガールズグループ」という立ち位置のマジック。
「堀江」というのはいうまでもなく、大阪のなんばから少し左上、アメリカ村から阪神高速の高架を抜けたところにある、大阪市西区北堀江から南堀江の一帯のことを指している。2000年くらいから、ファッション誌でもお洒落な街として取り上げられるようになっていて、特にもともと家具系の問屋街であったこともあって、個性的なインテリアや雑貨を備えたショップとアパレル系のショップ、カフェがちょうど良い間隔で点在している街だ。様々なレイヤが折り重なっている大阪の街の中でも、歩いていてなかなか居心地の良いエリアだ。
そんなイメージが強く残っていたこともあって、「堀江系」という言葉の魔力には強く惹かれた。多分、よくありがちな大阪に対するイメージとは違うものを感じさせてくれたんじゃないかと思う。当時のメンバー6名の個性の違いもまた面白かった。
そこから約2年半くらい、仕事の制約を縫いながら、何度かのインストアに足を運び、ライブにも4回くらいは通ったんじゃないだろうか。オタクのオの字にも入らないくらいだけれども、これだけの期間の中であるグループの姿を追いかけた頻度としては、珍しく突出していた。それだけ、彼女たちが放つコンテンツの斬新さ、想像の軽く斜め上をかすめていくような展開がまた面白かった。
その中で発表されたのが、活動拠点の東京への変更と、それに伴うメンバーの大幅縮小。
関西ではアイドルが育ちにくいという話は予々耳にしていたことだけれども、やはり目指すは東京なのか、という印象を強く感じた。確かに音楽が売れるマーケットとしての東京はとても魅力があるかもしれない。ひとつ何かキッカケを掴むことで大きく成長する可能性だって、確かにあるのかもしれない。
それにしても、やはり東京なのか。
それまでのイメージを刷新していきたいという狙いも、ヴィジュアル面や配信された楽曲から垣間見ることはなんとなく見えていた。けれども、なぜかその先の食指が動かなかった。本当にファンだったら足を運ぶべきだというのはよくわかっている。けれども、個人的な事実として、そこまで強く足を運ばせようという力が、働かなかったというのがあった。なんとなく、払拭しきれない何かがあった。自分の中で「第1章は終わったんだ」と言い聞かせていたはずなのに。
「堀江」という地名は、記号に過ぎないのかもしれないし、本人たちにしてみれば軽いキャッチフレーズの一つだったのかもしれない。
けれども、様々な技術や手段が発達した世界の中で物理的な距離を超えることは簡単だ。その気になれば東京のど真ん中から大阪のど真ん中まで、2時間もあれば軽くたどり着くことができる。問題は「その気にさせてくる」かどうか。別にきっかけはなんだって構わない。ヴィジュアルだろうが、パフォーマンスだろうが、楽曲だろうが。そのどこを追うのかは「その気になった人」の自由。
それだけに、逆に「堀江」という言葉の魔力が実はとても大きかったんじゃないのか、という気が、個人的にはとても強く感じられてならない。
どんな世界でも「たられば」というのはあまり前向きな意味合いでは捉えにくい。今回解散することが決まるのにあたって、第1章が終わった時点で卒業をしたメンバーを含めて、それぞれがそれぞれの思いを抱かないかといったら、そんなことはないだろう。そのことについて別に語る必要もないだろうし、何か特別なアクションを起こす必要もないと思う。ファンは往々にしてそういうものを求めてしまいたくなるものだけれども。
グループの存在は無くなっても、楽曲は確かに残る。そしてこれからも、僕は楽曲たちを変わることなく聴き続ける。僕はそれで十分だと思っている。ただ、彼女たちにとって分水嶺のひとつになったであろう、「西長堀アパート」は、建築見学を兼ねて足を運んでみようと思う。大好きな「海辺のサティ」を聴きながら。
2016-07-30 (Sat) [長年日記]
■ 関心空間とわたし

インターネットコミュニケーションサイト(とあえて書こう)である「関心空間」が、2016年10月31日をもってサービスを終了することが発表された。
僕がこのサービスの存在を知ってユーザ登録し、最初の「キーワード」を登録したのは2001年12月6日だった。ユーザIDは1049。それなりにアーリーアダプターだったんじゃないかと思う。
この頃にはすでに個人サイトも開設していて、テキスト系ではないけれども、色々なテキストを書いていた。そんな時代だった。それを「キーワード」というコンテンツを軸にして様々なユーザさんと交流し、繋がりを持っていくというスタイルは、WWWが個人サイト中心の世界から、ソーシャルなものへと立ち位置を変えていく過渡期の中で、エポックメイキングな役割を果たしてくれたのではないかと思う。その功績は偉大だと思っている。
。。。とか偉そうに書いてしまったけれども、まぁとにかく集まってくる人の濃さやユニークさが半端なかったというか、それまで交流していた人々とは良い意味で違った感性の鋭さを持つ人がたくさんいて、とにかく色々と影響されたもんである。そしてオンライン上での人の繋がりというものの閾値を下げてくれたことが、後になってよくよく考えてみると、2010年〜2011年の「粒オケ」活動にも繋がっているんだと思う。
スピンアウトしたコミュニティで、山手線一周散歩とか、やったよなぁ。
就職して、仕事がある程度軌道に乗って、それなりに忙しいながらも仕事以外のことに色々と興味の対象が広がってきたところに、このサービスの存在があったので、もともと変人だったのにさらに変人ぶりに拍車がかかったというか。
でもとにかく、このサイト上での活動がネットライフだけでなくリアルライフまで豊かにしてくれたということは間違いないと思う。
登録した「キーワード」をアーカイブするべきか、しないべきか、ちょっと悩んでいるんだけれども、そっとこのままにしておきたいような気もするし、一つの活動の証として残しておきたいような気もするし、どうしようかなぁ。
とにかく、「関心空間」の存在に、本当に感謝しています。